
本館2Fにて開催中のEri Hayashi 個展『不在について』
作家がドイツに暮らした10年間=日本にいなかった10年間を「不在」というキーワードでまとめた展覧会です。
展示作品の一部と作家コメントをご紹介します。
《作家コメント》
私は10年程ドイツに住みました。
それは言い換えれば、日本に10年程いなかったということでもあります。
未だ現地の友人との交流はあるもののドイツに住んだ10年はすでに過去となり、懐かしい思い出になってきています。
しかし日本にいなかった10年は私に日本の習慣や言葉を忘れさせてしまい、現在進行形で日本で生きている私の困りごとになっています。
例えばそれは、日本の事件や出来事を情報としてしか知らない、30代の社会人に求められる言動と実際の自分に溝がある、「同調圧力」や「空気を読む」がピンとこないといった社会的な問題です。
また日本語を聞いているはずなのに相手の言っていることがよくわからない、ドイツ語を獲得する過程で使わなくなった日本語の言い回しがあり、テレビなどで耳にするたびに強い違和感を覚えるといった言葉の問題でもあります。
人間の身体はひとつしかなく、身体が届く距離も決して広くはありません。
だからインターネットやAIなどの技術が発達した現代でも、人が自分に関わることでさえ、全てを知り経験することができないのは当たり前のことです。
それでも帰国してから今まで「いなかった」ということがもたらす影響の大きさに圧倒され続けています。
そして「いる」ということだけでなく「いない」ということも人を構成する重要な要素であることを知りました。
この経験を元に過去作を振り返ってみると、現在と視点は違うものの「自分がいない(又は、いる)」ことが鍵となっている作品があることに気づき、再解釈を試みました。
そして帰国してから今までの「いない(又は、いる)」の気づきを踏まえて制作した作品とともに本展覧会を構成しました。
今回の展示は作家個人の経験に強く焦点を当てたものになっていますが、同時に人が生きていく上で出会う普遍的なテーマでもあると考えています。
本展覧会をそれぞれの個人的な出来事や他者との関係を交差させながら鑑賞していただけると幸いです。
Eri Hayashi

2017年頃から「ユートピア」をキーワードに制作をしていました。
現実世界の問題が解決された世界がユートピアだとすると、あるユートピアが実現されれば、それはもうユートピアではなく解決されるべき問題を孕んだ現実になってしまう。
つまりユートピアの本質は実現することではなく「計画」そのものにあるのではないかと考え、異文化に生きる自分が抱えている問題を起点に実現することを目的としないユートピアの設計図を制作しました。

2020年の春、ドイツではコロナによるハード・ロックダウンが実施され、外出や人との交流も制限されました。
一人暮らしだった私は誰に会うこともなく、許可された外出時に町で見つけた「ゆるいシンメトリー」をカメラに収め続けました。
今思い返すとそれは「他者」を探す行為だったのだと思います。
春はドイツで最も陽気な季節ですが、当時は人を見かけませんでした。
しかしその場所にたしかに人がいることは感じました。
触れ合うことはできませんが、通りかかる家々の中、部屋の壁の向こう側に人の気配を感じました。
生きている他者をより近くに感じるために、人の手が加わっているような「ゆるいシンメトリー」を切り取ったのだと思います。
当時の独特な空気感と人との距離感を作品に落とし込みました。

植物の種子散布の戦略について考察した作品です。
何千年も昔の種子を発芽させたニュースやスヴァールバル世界種子貯蔵庫の記事を読み、時間の流れが違うものと同じ空間にいて、自分の方が先にいなくなることについて興味を持ちました。
ガラスのカプセルの中に野菜やハーブの種子と水をそれぞれ封入し、一方はモニュメント性を持たせた桐製の開閉式の箱で、もう一方はナラ製の開閉不可能な箱に厳重に保管されています。
この箱の所有者はこの箱を保管、もしくは自由に使用し、生活に溶け込んだひとつのオブジェとして継承していき、いつの日か何らかのきっかけでカプセルが割れ、植物が活動を開始するという作品です。

今回の展覧会タイトル「不在について」と直接的に呼応している作品です。
自分がドイツにいたことと日本にいなかったことをネガとポジの関係性として捉え、現在自分の置かれている社会的、心理的状況を心理学的、言語的要素を組み合わせて絵画作品に落とし込みました。


糸でITOを作った作品です。
言葉は単体でも複雑なものですが、コミュニケーションと組み合わさるとより複雑になります。
単に婉曲的、直接的な話し方の違いというだけでなく、日本語は主語を抜いたり、接続詞で文章を終えてしまうこともあります。
また同音異義語も多数あります。
私は「日本語はわかるはずのに、相手の言っていることがよくわからない」ということを多く経験します。
日本語でのコミュニケーションは私にとってまるで強く絡まってしまって解けない糸のように複雑です。
その強く絡まった糸をなんとか解して糸、意図、異図という3つの同音異義語をレース編みでITOと綴ることで自分の抱える問題を軽妙に表現しようと試みました。

ギリシャのアテネに三日間旅行した際の経験を元にした作品です。
当時私は日常生活でドイツ語を話し、日本語とドイツ語で考え、読み書きをしていましたが、アテネにいる間は通りや建物を探すためにギリシャ文字を読み、英語を読み、英語とドイツ語で会話し、日本語とドイツ語で考えていました。
英語とギリシャ文字に慣れるにつれ「自分」というものが曖昧になっていくような不思議な感覚に陥りましたが、旅程後半以降、ドイツが近づくにつれ、再びドイツ語と日本語で構成された「自分」が戻ってきました。
言語と思考には深い関係性があることを再発見し、身体的移動と言語や思考の変遷を視覚化しました。
【会期】開催中 〜 2025年3月23日(日)
【会場】伊勢現代美術館 | 本館2F